【第5章】嫁姑問題=家の文化と育ちの衝突

みーぬ

プロローグ

「嫁姑なんて、どこでも多少はあるよね」
「まぁ、結局は価値観の違いってやつでしょ」

……うん、たしかにね。そういうケースもあるとは思う。
でも、うちの場合はちょっと違うんですわ。

鎌村家とのあれこれは、そういう“すれ違い”のレベルじゃなくて。
常識も、距離感も、感覚も、もうまるごと“別の星”の次元だから。

これって「ちょっと変わってる義実家」って話じゃなくて、
まるで育ちや普通の文化が違う“別世界”の星に降り立ったけれど、そこで生きていくためにはうまく合わせていかないといけなかったという話。

“普通”じゃない人や家であるほど、“普通”と言いたがる

普通、ってのは大抵は存在しないんだよね。
例えばカーテンのサイズにしたって、窓の種類やサイズは多岐に渡ってるから測らずに既製品を買えばいいや、って言う人は今はもうそんな多くない。
だけど、サイズを聞いても、
「は? 普通のやつだよ!! なんでわかんねぇんだよ??」
って逆切れてる人もまれに一部いたりする。

換気扇カバーを買うにしても、「うちの換気扇は普通のやつ!!」って言う人・・・
たまにお店でお見掛けしますから。

「普通」という言葉ほど、あいまいなものはないのにね。


各家庭で作られる「ふつう」の概念

私の実家って──

  • 親しき仲にも礼儀あり。家族であっても。
  • 人様に迷惑をかけちゃいけない、という教え
  • 個々を尊重。

そんな“当たり前”が自然に流れてたんだよね。
わたしにしてみればそれが普通の世界。

でも、鎌村家はまるで真逆で。

そこにはこういう空気があった。

  • 「家族なんだから、遠慮しなくて当然」
  • 「家族なんじゃから一緒でええやろ?」
  • 「家族に気を遣うなんて水くさい」
  • 「連絡しないなんて冷たすぎる!」
  • 「連休が一週間もあるのに、帰ってこれないはずがない!!」

……みたいな。
なんというか、“家族だからOKでしょ!”が全部の免罪符になってる感じ。

でも、それが普通、ってことなんだもんね。
私からしたら、そうだったとしても途中でおかしいって気づくでしょ?って思うけど・・・
まぁ そうならないところが闇なのよね。

たとえば、私の実家では──

父は、私が帰省して掃除をしたり様子を見たりしようと家に帰るたびに
決まって、こう言ってた。

「お父さんのことはいいから、早く旦那のとこへ帰れ。」

家が近いというのもあるし、父はひとり暮らしだったけど、
それでも、私が自分の家庭を優先することをあたたかく見守ってくれる人。

何でも自分でできてやってる人だったけど、段々できなくなっても弱音は吐かないし、娘を頼らない人だったんだよね。

一方、鎌村家の場合は

「年老いた私たちのことが心配じゃないんか!?」
「なんで連絡してこんの?!」「後で後悔しても知らんよ!!」

すそこ様はそうやって、
“老い先短い私たちを放っておくな”という言葉で圧をかけ続けてきた。

子どもたちに迷惑をかけたくない、と言いながらの“罪悪感で縛る”ための言葉の数々に、気づけば私たちは、義務感に追いつめられていく羽目に。

……で、そうやって何年も「老い先短いアピール」を繰り返してきた義両親は、
いまだにピンピンと元気そのもの。

私のお父さんはあっけなくあの世に呼ばれて逝っちゃったけどね。

最初は、「まぁ、家によっていろいろあるのかもね」って思いこもうと頑張ったものの、
けど、やっぱりどこかで「おかしいな…」ってずっとひっかかってもいて。

今はもう、はっきり分かる。

これはただの“文化の違い”だけじゃない!
私の“ふつう”というよりも、一般的な概念も鎌村家にはまったく通じない。
“支配ありき”の構造そのものやないかー!


“嫁”という役だけが求められてた違和感

鎌村家での私は──

  • 「息子の嫁」
  • 「鎌村家の人間」
    っていう、“立場”としてしか見られてない。

● 私自身の考えとか文化は、そもそも存在しないかのように華麗にスルー。
● 「この家に来たんだから郷に従え」で、黙ってなじむのが前提。
● いや、もはや“なじませにかかってる”空気すらあった。

そうやって気づけば、
「鎌村家ルール」に染まるのが嫁として当たり前!になっちゃってた。

“家族”って、もっとあったかくて、自由で、
「それぞれが自分でいられる場所」だと思ってたんだけど──

鎌村家の“家族”はなんかちがったんだよね

「嫁」という肩書きで括って、
その枠からはみ出すことは絶対に許さない!!

……それってもう、単なる役割だけ。

「人」じゃなくて、「嫁」としてだけ存在してるような感覚なんです、わたし。

それってもはや私でなくてもいいやつ。誰でもええやん。

“家族”って言葉が、
どんどんただの支配ツールみたいに見えてきたわ


「家族ごっこ」に巻き込まれてたのかも?

お正月、お盆、ゴールデンウィーク──
気がついたらすべての大型連休が義実家で埋まってた。

(※このあたりの経緯は、また別の記事でこってりこてこて濃厚にお送りします。笑)

姑すそこ
姑すそこ

連休に帰るんは、家族なんじゃから当たり前のこと

そんなふうに言われると、「そういうもんか…」って思いかけるけど、
心の奥ではずっと違和感が積もっていく。

だって──
こっちは遠方から何時間もかけて帰ってきてるのに、
感謝のひとこともないからね。

むしろ、連休の合間に電話をしなかった!と怒られる。

一回でも帰らなかったら「ひどい!」「家族を大事にしないと後悔するから!!」
「今まではあんたたちの方から帰ってきてくれてたのに、親不孝者!!」
と徹底的にこちらの人権は無視を決め込んで責められる。

え、待って?
帰省って「義務」じゃなくて「選択」じゃないの?

求めてくるから応じてただけなのに、
それを“当たり前”にすり替えてくるこの感じ──

しかも、「そんなこと言ってない」と言い逃れできる構文で。
責任の所在だけこっちに押しつけてくる構造……もう、自己正当化がすぎる。

そのうち思った。

これ、ほんとの家族っていうより──
“理想の家族ごっこ”に、私たちが巻き込まれてただけじゃない?

演出のために、わたしたちの生活や都合なんてなかったことにされてない?

単に一方通行のルールを、「これが普通」と押しつけられてただけだったんだよね。

そこにあったのは、
思いやりでも対話でもなく、
“支配のための家制度”。

なのに私は、
「わたしの心が狭いのかな?」とか
「ちょっと神経質に受け取りすぎてる?」って、
ずっと自分のせいにしてた。

でも、あれはちゃんと違和感だったんだよねー・・・
罪悪感で苦しむだけではなくて、ちゃんとモヤモヤを感じたことは間違いじゃなかった。

過去の私に言いたい。

みーぬ
みーぬ

それ、“ふつう”じゃないからーー!
あなたはのその違和感間違ってないんだよー
自分を責めることなんてないんだよーーーーーー
大丈夫ー!
そのモヤは解明できるから!!

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みーぬ
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観察系記録ライター
義母との複雑な関係をきっかけに、 “家庭”という名の舞台に仕込まれた違和感を見逃さず、 観察・分析・記録を始めました。 このブログでは、 心を守るための言葉を綴っています。 最初は、誰にも言えない気持ちの吐き出し。 でも、記録しながら自分の感覚を取り戻し、 今は“自分で自分を守れる言葉”を紡いでいます。 私にとって「書くこと」は、 日々のズレや不安から自分を切り離す、小さなサバイバル術です
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